狭山養生鍼灸院

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お灸の文化

以下のないように興味を持っていただいた方は、次の本をお読みください。

福西佐元院長の最新の本です。表紙絵は、江戸時代、月岡芳年のお灸の浮世絵です。

秀吉の手紙(1)

 豊臣秀吉の手紙に出てくるお灸の話をしましょう。今回は、所有者である高大寺様のご好意により掲載します。

 下の手紙は天正18年(1590年)、小田原攻めの陣中から秀吉が正室おねにあてたものの一部です。矢印の行に「やいとう」という字が見えます。

 この手紙には面白いことが沢山書かれています。次回に詳しくお話しましょう。戦国武将は普通、手紙を祐筆に書かせます。祐筆とは、手紙や文を書く秘書に相当します。しかし、今回の手紙は秀吉の直筆です。

 なお、秀吉の正室は、ねね、おね、北政所、高台院等と呼ばれます。文禄2年の手紙では秀吉自身「おねへ」と宛名書きをしています。

 

秀吉の手紙(2)

 天正十八年(1590)、小田原攻めの陣中から正室おね宛に出した豊臣秀吉の手紙の中に出てくるお灸の話を続けます。秀吉の直筆であるこの手紙は、ほとんど仮名なので、大変わかりにくいものです。そこで私の独断で漢字を挿入しました。

 辺々はやくてき(敵)をとりかこ(鳥籠)へいれ候ておき候間、あふなき(危なき)事ハ、これなく候まま、心やすく候へく候。わかきみ(若君)こいしく(恋)候へとも、ゆくゆくのため、又ハてんか(天下)おたやかに申つく可候と存候へは、こひ(恋)しき事もおもいきり候まま、心やすく候へく候。我等も、やいとうまでいたし、み(身)のようしやう(養生)候まま、きつかひ(気遣)候ましく候。………

秀吉もお灸で養生

 仮名をカッコ内に漢字変換しましたのでもうお分かりと思いますが、あえて大意を記します。

 小田原の北条氏を鳥篭に入れたように包囲したので、危険なことは無いので安心して欲しい。若君を恋しく思うが将来添加がおだやかになると思うので辛抱しているから安心して欲しい。自分もやいとう(お灸)をすえてまで身体の養生をしているので心配しないで欲しい。

 大意は以上のようになります。文中の若君は秀頼のことではなく、ここでは3歳で亡くなった秀頼の兄に当たる鶴丸のことです。

 秀吉の戦略として、北条氏を包囲したまま兵糧の尽きるのを待つ消耗戦を計画していたので、当然長陣になります。そこで、大名たちに女房を陣中によばせることにし、自分も寵愛している淀君をよびたいと思っています。しかし、正室を通さず直接淀君をよぶのは正室のご機嫌を損なうことになるので、正室たるおねから小田原に行くよう淀君へ申し付けて欲しいという依頼の文が続きます。これは、正室の権威を示すと共に、秀吉の気配りの緻密さを示しています。この並外れた気配りこそ秀吉をして天下人たらしめた最大の要因で「人たらし」と言われた一端を示しています。

万博とお灸

 いま開催中の愛知万博で、4月30日にお灸のデモンストレーションを行ってきました。正式には『愛・地球博』の長久手会場にある『中部千年共生村』というパビリオンで、お灸の体験を指導してきたということです。この趣旨は、拡大中部9県(愛知・三重・岐阜・静岡・長野・福井・石川・富山・滋賀)が、千年にわたり健康で、快適に、愉快に、平和に共生してゆこうとの願いのもとに、各県がかわるがわる催しを行ってゆこうとのことだそうです。 すでに実施されたことを少し述べると、たとえば三重県主催の時には”伊勢エビと触れ合う”ということがありました。また、岐阜県主催では、おからのクッキーを作るということでした。こんなことが、万博終了までずっと行われるのです。

『世界』で一つお灸教室

 今回のお灸は、滋賀県の主催でした。これは同県の伊吹山が昔から、もぐさの名産地として名高く、今ももぐさの製造業者が多いからです。そこで、その講師として私に白羽の矢が立ったということです。それは次の理由によります。

世にお灸の大家は沢山おられますが、素人向けの『お灸教室』を開いているのは日本中で私だけなのです。つまり私の主催する『お灸教室』は、日本中で、いや世界中でもたった一つの素人向けの教室なのです。ですから、今回素人にお灸を体験する講師としては最適任ということになったのだそうです。

会場では、あらかじめインターネットや電話で申し込みのあった人にお灸の体験をしてもらいました。それはもちろん、私がいつもお勧めしている「熱くない、アトのつかない”八分灸”」でした。

「藤原定家と灸」

平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての代表的歌人であった藤原定家とお灸について述べましょう。 定家は19歳の時から79歳で亡くなる直前までこまめに日記を書いています。それが『明月記』です。漢文で書かれていますが、今川文雄さんの『訓読明月記』によることにします。明月記を見ると、定家は病弱であり、特にひどいのはぜん息の持病があったことです。

お灸で長命  持病とたたかう

定家は病弱とたたかうため、しょっちゅうお灸をすえています。今回は寛喜2年(1230年)、定家68歳の秋のところを見ましょう。

☆            ☆

十月十九日。霜凝り、天晴る。橘の樹に竹屋を作る。午の時許(はか)りに興心房来られ、相謁す。心寂房来臨。灸癒ゆるに随ひ、腫れ漸々に減ずるか。但し、三所許り又灸すべきかの由之を示す。重畳の灸殊に堪へ難きのしい由之を答ふ。又自然に事の体を見るべき由之を示す。

☆            ☆

この日より少し前に定家の足がはれて、それに対しお灸をすえていた記述があります。文中、心寂房とは定家の主治医の名前です。定家は相当強いお灸をすえており、そのアトが治るにつれて腫れも少しずつ取れていくと予想しています。医者は重ねてもう少しすえようと言いますが、定家は辛抱できないと断っています。 定家の父藤原俊成も90歳まで長生きで、定家も79歳まで長生きしたのは遺伝子がよいのとともにお灸が大きく貢献したものと思われます。

「ホームタウン」‘08年5月9日号 掲載

 

「篤姫の夫君 家定公と灸」

 NHKの大河ドラマ『篤姫』が放映されています。原作が新聞に連載されている時に読んだ関連で、私も毎週見ています。篤姫(あつひめ)の夫君で第十三代将軍、徳川家定公がお灸をすえていた話をしましょう。 将軍の日常を記した『徳川実紀』をみることにしましょう。

☆            ☆

文政七申四月八日御誕生。表向御弘無之。十五日御七夜御祝。同五月十五日御名政之助。(中略)文政九年九月九日御元服、御官位後初て出御。同十一月四日初て御灸。

お灸の狙い 疳虫封じ?

上に見るように、かぞえ年で3歳、満で2歳でお灸をすえています。これ以上の記述はありません。では、どこへ、何のためにお灸をすえたのでしょうか。これからは私の推論になります。 おそらく図に示した『身柱』(しんちゅう)というツボにすえたものと思います。『身柱』は第三胸椎の下に取ります。ここは『ちりけ』とも言われ、昔から、疳虫封じによいとされています。また、ここにお灸をすえると子供がスクスクとよく育つとも言われ、各地ですえられていました。 この習慣が将軍にも及んでいたことを示しています。また、このお灸のみがわざわざ『徳川実紀』に取り上げられていることも、御七夜の御祝等とともに完全な行事の一つになっていたことを示しています。 ところで、『徳川実紀』をよく見ると、初代の徳川家康はお灸がきらいでした。しかし、三代家光はお灸が大変好きでした。いたるところにお灸をすえた記述が出てきます。もっとも、記すか否かは、その書記官の考えにもよるようです。

「ホームタウン」‘08年7月4日号 掲載

 

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